コラム No1.
自転車泥棒
これは1945年に製作されたイタリア映画の名作の題である。私の自転車泥棒体験はそれ
から10年後のことだ。
実際に自転車を盗まれたのは1955年の8月であった。高校を卒業して最初に就
が山陽新聞社の工務局活版部であった。当時の新聞は書かれた記事通りに活字を拾って紙面を
作った。仕事で毎日蛍光灯に照らされた銀色の活字の反射光を見ているうちに、眼が悪くなっ
た。
よくしたもので、会社の近くに眼科医院があったので毎日通院して治療を受けた。治療とい
っても毎回やることは同じで眼の玉を水で洗浄してねばねばした薬を注入してもらい、自分で
眼の玉にすりこむだけであった。
通院何回目だったか、帰ろうとおもって外へでると乗って来た自転車がなくなっていた。周
りを探したが見つからなかったので慌ててしまった。自転車は自分のものではなくて、兄から
借りたものだった。運よく眼科医院の反対側に交番があったのですぐ駆け込んだ。警官に事情
を説明しながら、大通りを茫然とみていると私の自転車に乗って走っていく男がいるではない
か。当時はまだ市役所通りの車は多くなかった。
交番を走り出た私は盗まれた自転車を追いかけた。そうとは知らぬ泥棒は駅方向に向かって
悠々とペダルをこいでいた。追いついて荷台をつかみ「おい、誰の自転車に乗っとるんじゃ」
と声をかけた。男は振り返って私を見たので、とっさに手がでてパンチを一発お見舞いした。
歳のころ50歳台くらいで草臥れた顔をしていた。「まいった、まいった」といって自転車か
らとびおりた。
私が「あれが盗まれた自転車だ」といって交番を飛び出したので、警官2人も私の後を追っ
て来ていた。私は腹立ちまぎれに泥棒の顔を殴ったら「らんぼうはいかん、あとはまかせなさ
い」と警官にとめられた。
それから30年もたつと自転車の値段も安くなったので岡山駅周辺には放置自転車がごろご
ろしていて、その整理に困る時代がやってきた。
岡山大学病院は近い場所にあり、生家から岡山駅まで行く道程の真ん中へんにあたった。子
供時代に親から「ビョウイン前の店へ行って買って来てくれ」となんでも「ビョウイン前」へ
いけば用がたせた。ビョウイン前とは岡山大学病院の正門から北へ1キロほどの長さで続いて
いる商店街のことだ。そこには八百家、豆腐屋、自転車屋、電機店、肉屋など日常生活に必要
な店が並んでいた。中でもよくお世話になったのは自転車屋で道路が舗装される前はタイヤに
釘が刺さりパンク修理ばかりだった。店主とはすっかり顔なじみになっていたので道路沿いの
店頭で修理に忙しくしていても挨拶すると「どこへいきょうるんなら」と声をかけてくれた。
私が衛生学教室に出入りしだしたのは、森永ヒ素ミルク中毒事件の被害者を支援する「森永
告発」の運動に入ってからのことだが、そのころは自転車を卒業してバイクに乗っていた。衛
生学教室の講師、助教授も運動に加わっていたので、講師室にある当時としては最新の印刷機
でビラを刷り、天満屋前で毎週日曜日に撒いた。そのうち他府県から来ている医学生と知合い
になり、私が地元産の人間なので色々と相談を受けた。引越しの手伝いから買物の店の紹介な
どに利用された。その後通学に使う中古自転車が欲しいというので、店を紹介したら1年も経
たずに盗まれた。この学生は卒業までに4台もこの店から買った。1台千円と安かったけれど、
盗まれても「またやられた」と、けろっとしているのにはあきれた。(能瀬英太郎記)
2025年7月11日掲載